「病める貝殻にのみ真珠は育つ」
――マクシム・ゴーリキィ
天才について書かれた論文や著書は少なくないが,それらは主として哲学,心理学,遺伝学,病跡学(パトグラフィー),精神医学の面からの記述であって,天才的発想,天才人の行動の基礎にある脳の生理学的機序についてはほとんど問題にされていない.
片頭痛もてんかんも古くより知られており,日常よくみられる病気である.そして,片頭痛に悩まされた天才的人物は少なくなく,天才にてんかんは稀でないことは何度も指摘されてきた.しかし,天才にこれらの病気が多いということだけで,どのような因果関係があるかについては論じられていない.本書ではまず片頭痛,てんかんについて述べ,両者は密接な関係にあって,片頭痛は本質的にてんかんの一種であることを強調したい.そして,天才のインスピレーション,宗教創始者にみられる天啓,さらには天才的人物の性格,行動などはこれらの病気の一部分症状であり,共通して基礎にあるのは脳の興奮性の亢進であることを説明し,最後に天才にみられる悲劇性に触れたいと思う.
1870年,イギリスの医学雑誌「ザ・プラクティショナー」(
The Practitioner )の5月号に'Quaerens'の筆名で「てんかんの予後および治療指針」と題する短い論文が掲載された.
冒頭にはイギリスの詩人コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge, 1772-1834)の『ソネット』"
Sonnet "(1796)の一部,
|
よく私の頭の上で奇妙な空想が起こる,
それは現在を(閃光が続くあいだ)
なにか知られない過去に少し似せているようだ,
このような感覚が混じりあう,
眠りの中で魂が自問して混乱するように,
誰かが言った,われわれは今の肉の衣を着けるまえにも生きていたのだと.
|
次いでテニソン(Alfred Tennyson, 1809-92)の『二つの声』"
The two voices "(1833年の日付で1844年に初めて出版された)から,
|
その上,なにかがある,あるいはあるようだ,
それは神秘的なわずかな光でわたしに触れる,
忘れられた夢のきらめきのように――
――――
なにかが感じられる,ここにあるなにかのように,
なにかが行われる,どこでだか知らないが,
だけどそれは言葉では言えない.
|
が引用され,次いでディケンズ(Charles Dickens, 1812-70)の『デイヴィッド・コパフィールド』"
David Copperfield "(1849)の一部が引用されている.
|
われわれは誰でも,現在言っていること,していることが遠い過去にすでに言われ,なされたという感じにときどき襲われることがある.そして遠い昔に見た顔,物,環境と同じものに取りまかれているような感じがし,また突然思い出したかのように次に話される言葉は何かを完全に知っているような感じになることがある!
|
これに続いてQuaerens氏は自己の体験を述べている.
|
昨年はじめて不幸にも私にときどきてんかんが起こるようになりました.私が少年時代からよく知っていた上記の感覚は,過労時の最初の発作の直前に普段よりもより強く,よりしばしば起こったことをよく覚えています.最初の発作後は,そのような感覚はあまり起こっていません.しかし二度その次の日にてんかん発作が起こり,以来私はすぐに休息をとることによって発作を治療しています.
この体験は私には治療上二つの点で興味があるように思われます.第一は,コールリッジやテニソンがそれをいかにうまく説明しようとも,またディケンズがこのようなことはよくあるものだとみなすにせよ,これはおそらく脳の機能障害を示すものと考えるべきであって,それを見つけて取りのぞくことによってより重篤な障害にならないようにすること,第二は,てんかんの症例を調べれば,言うに値しないとされているこのような現象がみつかり,本当は小さな発作の微小型であってもより大きな発作の警戒を予告するものであるということです.
|
1888年と98年にイギリスの神経内科医ヒューリングス・ジャクソン(John Hughlings-Jackson)(Vol.I, 385-405, 458-463)は,てんかんでみられる知的アウラ(前兆)(intellectual aura),彼のいう夢幻状態(dreamy state)に関する論文を発表しているが,その中でQuaerens氏が1880年2月に診察を受けに来て,それまでに18回の大きな発作(意識喪失,けいれん,咬舌)と何百回もの小さな発作を起こしていたと述べている.この論文にジャクソンは,Quaerens氏の論文の『デイヴィッド・コパフィールド』からの引用文以下全文を引用して紹介している.Quaerens氏はその後アーサー・トマス・マイアーズ(Arthur Thomas Myers, 1851-94)であることが明らかにされた.彼は有能な医師で非常に活動的であり,精神的な問題に興味を持ち何冊かの著書もあるが,生涯独身で42歳で自殺した.剖検では左の扁桃体に病変がみられた(Jackson, Vol.I, 458-463).死因,剖検所見については異論もあるが,彼が少年時代から幻覚を伴うてんかんを患っていたことは確かである.彼の兄のフレデリックW.H.マイアーズ(Frederic W.H.Myers)もすぐれた学者で,彼は弟アーサーの観察から,「超意欲」'hyperboulia'の語を用いて異常な敏感さを天才の条件であるとしている.このQuaerens氏の例は後述のゲシュヴィント症候群に近いと考えられ,天才とてんかんの関連を考えるうえで極めて多くの示唆を与えてくれる.
病人と健常人の差は量的な違いにすぎないが,天才と凡人の差も量的な違いである.しかし,
極度の場合,量的な違いが質的な違いとなる.
とのビタミンCの発見者であり筋収縮の研究者でもあるハンガリーの生化学者アルバート・セント=ジェルジ(Albert Szent-Györgyi)の言葉(Moss, p.204)には,普遍的で重要な意味が含まれていると考えたい.