組換えDNA 実験に代表される現代の生物実験が致命的な大事故を起こしてこなかったのは,Bergらが1974年にScience誌上で訴えたモラトリアル宣言Potential Biohazard of Recombinant DNA Moleculesと,それに引き続く1975年のアシロマ会議の成果といっても過言ではない.組換えDNA技術が実現したにもかかわらず,安全性の確保が必要であることを認識した世界の研究者はBergらの意見に従って実験を一時停止し,アシロマで一堂に会して安全を確保する方法を論じた.これが現代でも我々が守っている組換えDNA実験に係わる法律の基礎となった.一般的に法律や規則を守るにも,努力が必要だが,組換えDNA実験の規則は守りやすく合理的であることに逆に驚かされる人も少なくないだろう.組換えDNAに係わる規則は仕事を円滑に進める助けにこそなれ,うっとうしい存在ではない.規則が研究者の自己規制と熟慮によって合理的につくられたからである.
安全とは,そういう合理性から生まれるものではないだろうか.ただ規則をつくっても守られなければ意味がないどころか,二重帳簿や隠蔽という形で事故を生む温床にすらなりかねない.東日本大震災に関連する様々な出来事で,我々は今もそのような問題を抱えたまま生活している.もっとも,人の悪口をいう前に,今一度自分の足元の安全について考えてみてもよいのかもしれないとも思う.
だいぶ前のことになるが,実験の安全についてリアリティーをもって分かりやすく書かれた『Q&Aと事故例でなっとく! 実験室の安全[化学編]』に続く[生物編]をつくりませんかという話をいただいた.ところが,いざ書き始めてみると事故や失敗例を集めるのに苦労した.幸か不幸か,生物実験では化学や物理学の実験に比べれば爆発や火災などの大きな事故は起こしにくい.しかし,発癌物質など生体に直接作用する薬品や,始めにとりあげたようにバイオハザードなど潜在的な危険性をもつものも扱う.一方,対象となる生体や細胞などがデリケートな生き物であることへの配慮も必要である.生物学実験では事故とともに,生き物や生物活性のある分子を扱うが故の失敗も問題になる.そんな失敗例まで何とか集めたのだが,結果としてほとんどが私自身が直接起こしたか,ごく近くで目にしたり聞いたりした実例である.「音声と映像は換えてあります」程度に事実をモディファイしたものもあるが,完全なフィクションはない.よくも様々な事故や失敗,あるいは問題となる例が起きるものだと,校正稿を読み返しながら改めて呆れている.
事故や失敗の多くは,確認やコミュニケーション不足,事実の誤認や知識の欠如によることも,読み返して再認識した.そういう意味で学生諸君には「基本を勉強しなさい」「化学や物理,地学の知識がなければ生物学実験をするのは危険だ」などと教師のようなことをいいたい気持ちもある.しかし,最初に書いたとおり合理的に実験を進めれば安全が確保されるような環境を,我々側がつくる努力も必要であろう.本書が,これから実験を始める皆さんと,実験環境を整備し指導する皆さんの双方のヒントになれば幸いである.
最後に,本書の出版にあたり,企画,編集等において多大のご尽力をいただいた,みみずく舎/医学評論社の編集部の皆様に厚く御礼を申し上げます.
2012年5月
野村 港二