一 幻の「虹の章」の執筆を終へて
本書は岡潔の人生と學問を語らうとする第四册目の評傳である。岡潔の評傳はこれまでに三册まで刊行した。既刊の三册を刊行順に挙げると次の通りである。
『評傳岡潔 星の章』(平成十五年七月三十日、海鳴社)
『評傳岡潔 花の章』(平成十六年四月三十日、海鳴社)
『岡潔 數學の詩人』(平成二十年十月二十一日、岩波新書)
平成七年の秋十一月に岡潔の評傳を書かうと決意してから、すでに十七年余の歲月が經過した。『星の章』が成るまでに八年、『花の章』までに九年を要したが、この二册から派生して新書版の小品『數學の詩人』が完成したのは、評傳への志向が心に萌したときから數へて十三年目の秋十月のことであつた。當初の評傳の構想はこの三册で盡されたわけではなく、もう一册、『星の章』と『花の章』の續篇として『虹の章』を執筆する考へであつた。上記の三册の著作に打ち込んでゐるときも『虹の章』のことは絕えず心に掛かつてゐたが、形をなさないままに平成二十三年となり、ゆくりなく岡の歿後百十年の節目に際會した。歲月の流れの神秘をあらためて思ふ。
評傳の構想に具體的な形を與へるには廣範圍にわたるフィールドワークが不可缺だが、茫漠として心許ない感じがつきまとひ、前途を想望するといつもめまひのするやうな思ひがしたものであつた。ともあれおほよその見取圖を心に描いた後、平成八年二月を俟つて、いよいよ實際に、生前の岡潔がこの世に印した人生の痕跡を訪ねる作業に取り掛かつた。まずはじめに岡の父祖の地の紀州和歌山の紀見峠に向ひ、それから岡の生地の大阪市東區島町(出生當時の表記。現在は中央區)の界隈を散策した。『星の章』と『花の章』の二册はこの歲月の流れから摘まれた果實であり、これによつて岡の生涯の歩みと學問の生成過程を細部にいたるまで俯瞰することができるやうになつた。人生にも學問にも解明を要する謎が充滿し、神祕的な魅力の雲に隅々まで覆はれた人物なのである。
フィールドワークの守備範圍は當初から『虹の章』のテーマにも及んでゐた。この卷の内容は岡潔の晩年の交友録であり、具體的には小林秀雄、保田與重郎、胡蘭成、石井勲、坂本繁二郎の五人との交流の模樣を再現したいといふほどの考へであつた。だが、人と人との交友を描くには「人」を知らなければならず、『虹の章』に先立つて『星の章』と『花の章』を書いたのも、もともとそのための土臺を確保するつもりなのであつた。この二册の評傳により岡の人生については相當によく諸事情が明らかになつたが、他方、岡の五人の交友の相手にもそれぞれに固有の人生があり、しかもどのひとりの人生を見てもたうてい尋常ではありえない。このあたりの消息に由來していくぶん複雜な調査と思索を迫られて、様々な困難が相次いで發生したのである。長い歲月に渡つてつねに心にあつたにもかかはらず、『虹の章』はいつかうに完成の氣配を見せず、いつまでも幻の懸案であり續けるばかりであつた。
交友録とは別に岡潔の晩年の思索の姿を回想することも『虹の章』の重要なテーマであつた。岡は三十代の終りがけのころからつねに『正法眼藏』を座右に置いて親しみ續け、晩年のエッセイの中で、この不思議な書物をめぐつてさまざまな發言を重ねていつた。また、晩年の岡の心情はどこまでも日本に回歸し、みづからを「純粹な日本人」と自覺して、「日本を思ふ心」をしきりに語り續けた。このやうな發言のあれこれは岡の數學研究の姿形とどのやうなきづなで結ばれてゐるのであらうか。
これに加へて日本語の表記にまつはる諸問題にも直面した。『虹の章』は歴史的仮名遣と正字體の漢字で表記したいと望んだことから發生した問題だが、實際にこの望みを實行に移さうとすると、勢ひのおもむくところ日本語の表記とは何かといふ素朴な疑問に遭遇し、日本の近代に出現した込み入つた論爭の現場に踏み込んでいかなければならなかつた。
萬事がこんなふうで一年がすぎ、二年がすぎ、『花の章』の刊行後の歲月が流れていつた。この閨A平成二十年に岩波新書の『岡潔 數學の詩人』を出したが、これは主として岡潔の數學者としての姿に焦點を當てた作品であり、『虹の章』とは關係がない。『虹の章』の構成も何度も變遷したが、最後は「石井式漢字ヘ育─心の珠を磨く」「駒込千駄木町の一夜─國民文化研究會」「正法眼藏─玉城先生の肖像」「人閧フ建設─小林秀雄との對話」「龍神温泉の旅─保田與重郎との交友」といふ五篇の文章で編成するといふ構へに落着した。書名もまた「岡潔とその時代」とするのが内容に相應しいといふ考へに傾いたが、そこに小さく「虹の章」と書き添へることにした。「岡潔とその時代」は本書の身體であり、「虹の章」は本書の心である。以下、ひとつひとつの文書について成立過程を略記したいと思ふ。
[後略]
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