国立感染症研究所(感染研)の図書室に“Methods in Enzymology”シリーズがある.この不朽の名シリーズは,はじめローマ数字でvolumeが記されていたが,いまやvolumeは400を越え,いつしか背表紙には算用数字が用いられている.渋いグリーンに金文字のタイトルがあり,このシリーズが図書室の重要位置にある.そしてそれが感染研の研究者に実によく読まれているということは,感染研の底力,研究者の格調の何よりの証左として心強い.
さてこのシリーズの一節にA.Kornbergがかの岡崎フラグメントの岡崎令治先生の実験姿勢を記載している.<岡崎さんはサイミジンカイネースの精製に加熱処理をしていた.はじめこの酵素は一本の10mL試験管で70℃,5分加熱されて予備実験がされた.ついで大量のプレパレーションが必要になり,10mLから数Lへとスケールアップせねばならなかった.その時,彼は何と10mL試験管236本を使ったのだ.私ははじめ何と“unsophisticated”なやり方かと思った.しかし,彼はこの操作を実に短時間で苦もなくやりとげた.もし,より大きなビーカーやフラスコで加熱したなら,もっと簡単に大量の酵素が得られたかもしれない.しかし最初の条件と違ったことにより予想どおりの結果が得られず,そのトラブルシューティングに余分な時間を費やさねばならなかったかもしれないのである.最近,また私のラボの一人の若い研究者が単鎖DNAに結合するタンパク質を精製するのに加熱処理する必要に迫られ,3mLから6Lへとスケールアップせねばならなかった.その時,彼はまさにこのオカザキ流を思い出し,何と3mLの試験管2000本を加熱した.彼は難なく精製に成功.一方,一気に大量を加熱した同僚達はタンパク質の凝固が起こり失敗してしまった.>Kornbergは,オカザキの実験には“courage”,“concentration”,“skill”そして“enterprise”があると称えている.そしてこの研究室にはそのオカザキ流が伝統的に受け継がれていたのである.
さて今般『バイオセーフティの事典─病原微生物とハザード対策の実際─』が刊行されることは誠に時宜を得たものである.病原体の研究や病原体の診断,検査をする為に病原体を適切に扱い,それを万が一にも研究室や検査室外にもたらし,バイオハザードにならないようにするのは大根本である.感染症法が成立し,病原体の管理がはじめて法によって規制,管理されることになった.しかし,その根本姿勢,特に我々にとって実験室や検査室で最も大切な哲学,姿勢,注意力,集中力など,さらにKornbergが指摘している“courage”,“concentration”,“skill”そして“enterprise”は,法や規程あるいはSOPでは律しきれないものである.研究室で“伝統”や“マナー”として培い,継承してゆくものである.
感染研は今年創立60年をむかえた.本企画には多くの感染研の研究室のリーダー達が執筆陣に加わっている.この実用的な事典の中に,感染研が培ってきたバイオセーフティに関する研究所の根本姿勢が顕著に伝えられていることを期待します.
2008年10月
国立感染症研究所 所長
宮村 達男
近年,現代社会が生み出したとみられる新たな感染症の問題が登場した.WHOは1993年に「人類はいまだ感染症の脅威にさらされている,病原微生物の新たな挑戦に緊急に対処しなくてはならない」との警告を発した.この警告により,21世紀の感染症対策が,新興・再興感染症(emerging-reemerging infectious diseases)の概念の基に,世界各国で積極的に取り組まれるようになった.
わが国においても,1999年7月26日に厚生大臣名で発表した「結核緊急事態宣言」や病原性大腸菌0─157による食中毒の発生,SARSの恐怖,最近では高病原性鳥インフルエンザの発生や新型インフルエンザ流行の懸念など,感染症は国民の健康を脅かす大きな問題として浮上している.また,院内感染やバイオテロリズムの問題も社会の感染症に対する関心事となっている.
このような感染症の最近の動向に伴い,感染症法「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」が制定され,これに伴って感染症対策の一翼を担うバイオセーフティの重要性が強く認識されるようになった.このような情況をふまえ,ここ数年間でソフト面・ハード面ともに対策の理解から実践へ向けてバイオハザード対策の一定レベルの急速な進展がみられた.
しかしながら,病原体等の取扱いに関与する作業従事者のバイオセーフティに関する教育・訓練については,適切なバイオハザード対策の情報伝達が未だ不十分であるように思われる.
WHOの実験室バイオセーフティ指針には「実験室における安全確保の基本になるものは,よい実験習慣(good laboratory practice)であり,安全設備はこれを補強することはできても,これに代ることはできない」ことを強調し,関係従事者の教育と訓練の重要性を示している.
バイオセーフティの概念は一般的に病原微生物の取扱いにより発生する実験室内感染の防止を図るための安全取扱い技術と安全管理システムが基本となっている.従って関係分野のバイオハザード対策についても,この概念を基盤にした対応が求められる.すなわち,組換えDNA,病院内感染,医薬品開発・製造,実験動物および医療廃棄物処理などの各分野における微生物学的安全管理の基礎となるもので,バイオセーフティの原理・原則を十分に理解した上で各分野に即応したバイオハザード対策が構築されなくてはならない.
また,WHOの実験室バイオセーフティ指針(第3版)には,新たに実験室バイオセキュリティの概念の項目が追加された.これは最近世界中が直面しているテロリズムの問題に対するバイオテロ対策であり,実験室等に保有する病原体等が紛失,盗難,悪用,不正利用,意図的放出され,社会環境に害を及ぼすことを防止するのが目的である.したがって,実験室バイオセーフティと実験室バイオセキュリティとの関係を十分把握しておかなくてはならない.
上述のような国内外の動向をふまえ,本書はバイオセーフティに関する最新の専門書として企画され,第一線の専門家および施設・設備の専門技術者70数名の執筆により,現在最も合理的と考えられるバイオセーフティの実用書として編纂された.具体的には,1〜10章および付録の構成とし,1〜7章まではバイオセーフティに関る必須の事柄,8章はバイオハザードの起因となる病原微生物の特性と対策,すなわち実験室のハザードと予想されるリスク,予防法─消毒・滅菌法─,9章は薬剤耐性菌,10章には病原微生物等の取扱いの実際,について解説した.さらに,付録として,病原体便覧などバイオセーフティに関する関係資料を載せた.
このように本書は,バイオセーフティに関する要素と関連情報を集め,その一つ一つに解説を施したことから,辞典と区別し事典として編集した.読者がバイオハザード対策の原理・原則を理解するとともに,座右に置き適宣参考とする実用書として役立つことを心より祈ってやまない.
なお,文中の用語については,原則として執筆者の表記を遵守することとしたが,一般に認知されている安全キャビネットの表現が,種々の用語で使用されているため,編集段階において一般に多く用いられている「生物学用安全キャビネット」を「安全キャビネット」に統一して表記することにした.その他についても同様に統一を図ったことをご了承いただきたい.
今回の出版に際し,本書の執筆を賜った専門家の方々および編集に献身的に協力を賜ったみみずく舎/医学評論社の斉藤康彦氏をはじめ編集部諸氏,ならびに財団法人機能水研究振興財団の職員の方々に謝意を表したい.
最後に本書の刊行に大きな期待を寄せられ,自らの執筆を予定されながら,執筆直前に他界された特定非営利活動法人バイオメディカルサイエンス研究会の前理事長 故大谷 明博士に本書の完成を報告し,ご冥福をお祈りする次第である.
2008年10月
編集委員長 小松 俊彦