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まず薬局へおいでなさい ― 薬学の巨人 清水藤太郎

懸命に学び,考え,行動し,生きた――名薬剤師からの熱きメッセージ!

まず薬局へおいでなさい ― 薬学の巨人 清水藤太郎

販売中
   紙書籍 
天野 宏(日本薬史学会評議員)
百瀬弥寿徳(東邦大学名誉教授)
四六判,216頁,1色刷
2014/10/30発行
¥2,090(本体¥1,900+税¥190)
ISBN 978-4-86399-268-9
苦学して薬学を修め,薬剤師国家試験を突破。老舗薬局を営む傍ら,大学教授として長年教育に携わりながら多くの著作を世に送り出し,日本薬学の発展に貢献した清水藤太郎(しみずとうたろう)(1886〜1976)。その生涯を辿り,魅力あふれる人物像に迫る。
飽くなき探求心と熱意で何事にも全力で取り組み,常に新しいことに挑戦し続ける姿は,現代の薬学生・薬剤師の方々へのよき指針となるはず。
目次
プロローグ

第一章 筆職人から薬学の道へ
 質実剛健の藤太郎
  横綱谷風の再来かと言われた六歳児/算術が得意な少年
 家業が傾き旧制中学を中退
 十六歳で仙台医学専門学校雇に
  ドイツ語の資料作り
 明治三十八年,受験者一人だけの薬剤師試験に挑戦
  薬剤師試験に合格
 生涯の恩人・佐野義職の推薦で神奈川県庁に就職
  外交問題に発展した,県庁での飲食物の検査/ラテン語をマスター/若くして神奈川県薬剤師会理事に/入り婿の話が

第二章 大正時代にアメリカ式薬局
 清水家の三代目主人に
 苦労を重ね,店を大きくした初代と二代目
 店名を「清水平安堂薬局」に改め,衛生検査所を併設
 オリジナル屠蘇散の販売
 アメリカの薬局に触発される
  薬局初のDP事業を始める/ソーダ水,アイスクリームの製造販売/行列ができた,大評判のアイスクリーム/多くの薬局が混合販売に乗り出し,裁判に
 横浜植物会に入会,著名人との出会い
 関東大震災ですべてを失う

第三章 薬局のカウンターの奥から薬学者に
 親しくなったチェコスロバキア人の客
 長きにわたり悩んだ病が漢方で改善
 世界恐慌の始まりの年,帝国女子医学専門学校薬学科教授に
  薬局経営の講義も
 漢方診療室を併設
  湯本求眞が診療
 満州事変勃発後に起きた,薬の安売り合戦
  「ハマユウ」を組織して乱売防止/長女の夭折
 日本薬学の祖・ゲールツのへの思い
 帝国女子医学薬学専門学校で調剤学を担当
  軍靴の音が強くなった年,『局方五十年史』を一人で完成
 日中戦争勃発の翌年,『調剤学概論』などを刊行
  中国で漢薬調査/満州国薬局方調査臨時委員に選ばれる/『漢方診療の実際』を刊行
 太平洋戦争勃発の翌年,満州国建国十周年薬学大会に出席
  『清水調剤学』を刊行/空襲警報の中,植物採集/陸軍の依頼で食用植物の採集に駆り出される/再びすべてを失った横浜空襲/海軍の依頼で食草の実地指導

第四章 占領軍の置き土産
 平安堂薬局の跡地に占領軍が教会を建設
 新薬事法の制定に関わる
 日本薬局方調査会の幹事に
 正倉院薬物調査に参加
 深夜の羽田に降り立った五人の外国人
  アメリカの委員とやり合った藤太郎
 アメリカ薬剤師協会の置き土産・医薬分業勧告

第五章 東邦大学の人気教授・トータロー先生
 息子に「私は勉強,お前は店を」
 三時間かけて習志野の新制東邦大学薬学部へ
  敗戦で傷ついた学生を励ましたトータロー先生
 雑誌『薬局』の創刊を企画,編集主幹に
 薬学史の研究で,東京大学から薬学博士の学位を授与

第六章 まず薬局へおいでなさい
 処方箋交付を義務づけた厚生省
 「まず薬局へおいでなさい」をスローガンに
 日本薬史学会の創設
 新装なった平安堂薬局に,オーストラリア薬剤師会幹部が来局
 再び起きた薬の乱売

終章 「道楽は薬,楽しみは薬」の人生
 七十歳を過ぎても衰えぬ執筆意欲
 再びゲールツ研究を始める
 国立衛生試験所のゲールツ顕彰碑除幕式で,紅白の紐を引く
 くすり資料館の創設に参加
 約五十年にもわたる調査研究の集大成『和漢薬索引』の刊行

資料篇
 清水藤太郎略歴/主著/その哲学─調剤の意義─
参考文献
あとがき

あとがき
 「あの先生は“名医”だ」という言葉は耳にするが,“名薬剤師”という表現はあまり聞かない。
 清水藤太郎は,学問,技術,慈愛を備えたまぎれもない“名薬剤師”であった。横浜の馬車道で平安堂薬局を経営する傍ら,薬史学,薬剤学(調剤学),漢方医学,薬学ラテン語,薬局方(法制),薬局経営学,生薬学と多岐にわたる分野の研究で成果を上げている。学問のもととなる膨大な資料を収集し,評価しながら系統的に整理して,多くの優れた著書を執筆し,その数は百を超えている。そして,それらの書の何冊かは,薬の倫理思想を現代に伝えている。その業績が認められて帝国女子医学専門学校薬学科(現・東邦大学薬学部)に教授として招かれ,以後40年間,研究,教育に携わったほか,薬事審議会委員,公定書小委員会委員なども務めた。

 藤太郎は,明治19(1886)年に仙台で生まれ,明治35(1902)年に家庭の経済的な理由から旧制中学を3年で中退し,仙台医学専門学校薬学科(現・東北大学薬学部)の助手をしながら独学で薬学を学んだ。そこで佐野義職教授に出会ったことが,人生に大きな影響を与える。もし,この出会いがなければ,体格を見込まれて,大相撲力士の道を歩んだかもしれない。実際,幼少時に相撲部屋から誘われたという逸話も残されている。

 学歴がないことへの反骨精神,学問への純粋な興味,飽くなき好奇心,徹底的に知ろうとする探究心が,市井の一薬局薬剤師を薬学者にまで育て上げた。周りは帝国大学出身者で占められる学問領域にあって,大学出身者ではないことを理由に圧力がかかることもあったが,それをものともせず,自らの信念のもと突き進み,大学出身者も及ばない業績を残している。まさに“薬学の巨人”であった。

 藤太郎の原点は薬剤師であり,薬剤師,そして薬学の役割と使命は,人々の健康を助け,病に苦しむ人々を救うことであると考えていた。そしてその考えのもと,薬剤師の主業務である調剤について,独自の哲学を持っていた。
 常に患者に同情を持ち,例えば,処方箋を受け付けたときは患者に一礼して椅子をすすめ,処方箋を1回通読し,その裏を見て予定の交付時間および方法を告げる。患者は多くの不安を抱え,神経質になっているので,処方箋に疑義や不明な点があるときでも,患者の目の前でそのような態度を示して心配させないようにする。調剤室では,患者の見えないところで処方箋を2度精読し,必要があれば参考書を引き,全体を十分に理解し,誤りのないことを確認した上で調剤する。まさに“薬剤師道”とも言えることであり,この精神は,『清水調剤学』としてまとめ上げた著書にも調剤規範として盛り込んだ。
 学問は生かしてこそ価値があると信じ,それを薬局の経営にも活用し,早くから科学的な経営を目指した。

 もはや生前の藤太郎を知る人は少なくなったが,その人物像は,温厚にして人を引きつけずにはいられないほど魅力的であったと口をそろえる。
 苦労した人生を送り,18歳のときに最愛の母親を亡くしたことや,慈しんだ長女が早くから病に伏し,夭折だったことも,その人格形成に影響しているかもしれない。いつも笑顔を絶やさず,薬局に来る患者,客に対して,愛しみの態度で応じた。大学者に負けない学問の実績を上げ,薬剤師道を極め,人には仁愛の心を信条として接した藤太郎は,まさに薬剤師の中の薬剤師と言えるだろう。学歴のハンディを乗り越え,飽くなき探究心と努力で薬剤師の自尊心と独自の学問領域を開いた藤太郎の人生に学ぶところは大きい。

 執筆に当たり,清水藤太郎に関する資料,さらに,写真のすべてを快く提供してくださった平安堂薬局の清水良夫・真知両氏に感謝の意を表します。
 また,藤太郎の仙台時代の資料の収集にご協力いただいた長尾肇氏,横浜の歴史に関してご助言をいただいた横浜外国人居留地研究会会長の齊藤多喜夫氏に深謝いたします。
 最後に,本書の出版に多大なご苦労をいただいたみみずく舎/医学評論社編集部に心より感謝申し上げます。
 2014年9月

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