「あの先生は“名医”だ」という言葉は耳にするが,“名薬剤師”という表現はあまり聞かない。
清水藤太郎は,学問,技術,慈愛を備えたまぎれもない“名薬剤師”であった。横浜の馬車道で平安堂薬局を経営する傍ら,薬史学,薬剤学(調剤学),漢方医学,薬学ラテン語,薬局方(法制),薬局経営学,生薬学と多岐にわたる分野の研究で成果を上げている。学問のもととなる膨大な資料を収集し,評価しながら系統的に整理して,多くの優れた著書を執筆し,その数は百を超えている。そして,それらの書の何冊かは,薬の倫理思想を現代に伝えている。その業績が認められて帝国女子医学専門学校薬学科(現・東邦大学薬学部)に教授として招かれ,以後40年間,研究,教育に携わったほか,薬事審議会委員,公定書小委員会委員なども務めた。
藤太郎は,明治19(1886)年に仙台で生まれ,明治35(1902)年に家庭の経済的な理由から旧制中学を3年で中退し,仙台医学専門学校薬学科(現・東北大学薬学部)の助手をしながら独学で薬学を学んだ。そこで佐野義職教授に出会ったことが,人生に大きな影響を与える。もし,この出会いがなければ,体格を見込まれて,大相撲力士の道を歩んだかもしれない。実際,幼少時に相撲部屋から誘われたという逸話も残されている。
学歴がないことへの反骨精神,学問への純粋な興味,飽くなき好奇心,徹底的に知ろうとする探究心が,市井の一薬局薬剤師を薬学者にまで育て上げた。周りは帝国大学出身者で占められる学問領域にあって,大学出身者ではないことを理由に圧力がかかることもあったが,それをものともせず,自らの信念のもと突き進み,大学出身者も及ばない業績を残している。まさに“薬学の巨人”であった。
藤太郎の原点は薬剤師であり,薬剤師,そして薬学の役割と使命は,人々の健康を助け,病に苦しむ人々を救うことであると考えていた。そしてその考えのもと,薬剤師の主業務である調剤について,独自の哲学を持っていた。
常に患者に同情を持ち,例えば,処方箋を受け付けたときは患者に一礼して椅子をすすめ,処方箋を1回通読し,その裏を見て予定の交付時間および方法を告げる。患者は多くの不安を抱え,神経質になっているので,処方箋に疑義や不明な点があるときでも,患者の目の前でそのような態度を示して心配させないようにする。調剤室では,患者の見えないところで処方箋を2度精読し,必要があれば参考書を引き,全体を十分に理解し,誤りのないことを確認した上で調剤する。まさに“薬剤師道”とも言えることであり,この精神は,『清水調剤学』としてまとめ上げた著書にも調剤規範として盛り込んだ。
学問は生かしてこそ価値があると信じ,それを薬局の経営にも活用し,早くから科学的な経営を目指した。
もはや生前の藤太郎を知る人は少なくなったが,その人物像は,温厚にして人を引きつけずにはいられないほど魅力的であったと口をそろえる。
苦労した人生を送り,18歳のときに最愛の母親を亡くしたことや,慈しんだ長女が早くから病に伏し,夭折だったことも,その人格形成に影響しているかもしれない。いつも笑顔を絶やさず,薬局に来る患者,客に対して,愛しみの態度で応じた。大学者に負けない学問の実績を上げ,薬剤師道を極め,人には仁愛の心を信条として接した藤太郎は,まさに薬剤師の中の薬剤師と言えるだろう。学歴のハンディを乗り越え,飽くなき探究心と努力で薬剤師の自尊心と独自の学問領域を開いた藤太郎の人生に学ぶところは大きい。
執筆に当たり,清水藤太郎に関する資料,さらに,写真のすべてを快く提供してくださった平安堂薬局の清水良夫・真知両氏に感謝の意を表します。
また,藤太郎の仙台時代の資料の収集にご協力いただいた長尾肇氏,横浜の歴史に関してご助言をいただいた横浜外国人居留地研究会会長の齊藤多喜夫氏に深謝いたします。
最後に,本書の出版に多大なご苦労をいただいたみみずく舎/医学評論社編集部に心より感謝申し上げます。
2014年9月
著者
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